2008-09-20 20:15 | カテゴリ:コードギアス 反逆のルルーシュ R2
 
…以前の続きをば。
コードギアスの谷口監督のインタビューです。
第3回~第5回まで。
なので、異様に長いです(爆)

今回のは比較的アニメ自体の意味とか、アニメ製作や作り手側の意識とかについてが。
アニメがどうあるべきと思うのか、どういうものだと考えているのか、谷口監督の意見が見られます。
この辺は主に監督の意見もまた、一つの考え方なのだと。


●「快感原則」を忘れるなかれ
谷口悟朗監督「コードギアス 反逆のルルーシュR2」(3)
2008年9月5日

私の中で「アニメーションで成功した」と思える、あくまで「監督としてのポイント」ですが。
1つ目はDVDや玩具の売り上げも含めて、10円でもいいから黒字にして赤字を作らないこと。
2つ目は、TVアニメの場合には視聴率が良いこと。
3つ目が、3年後、5年後でも覚えてくれているお客さんがいるということ。例えばカラオケで主題歌を歌ってくれたりするような、時代的な継続ですね。
どれかが達成されていればその作品は成功だろうと。
要するに、「お客さんから何らかの支持を得た」ということですね。


コードギアスを始め、2つ目のポイントは難しいですよね。
深夜放送が多かったり、ゴゴゴの様に夕方枠でも録画鑑賞がこれだけ浸透している現在では、やはり視聴率という数字を出すのは難しいでしょうし。
朧的には3つ目がどうなるかは、残り2話に懸かっていそうな気もしますが…

・赤字を出さないことこそが正義である
アニメの絶対正義は、売れることだと思っています。
アニメーションに関しては、作品タイトルが10本あるとして、たぶん3本ぐらいですよ、全く赤字を作っていないのは。
赤字になってしまう作品のほうが多いんです。
一握りの作品が、赤字になった作品の損失分を補填して回しているという状態。
定められた予算を回収して、その上で、最後に金庫に10円玉が1個残りましたと。
10円でも黒字になれば、「次の作品」が作れるんです。
黒字にしないと、お客さんにも、「次の作品」を楽しんでもらうことができないですしね。
裏を返すと、これはやっぱりアニメ業界のいいところだと思うんですけれども、すべてが「勝ち組」になることができるんですよ。
実は10本タイトルがあったら、10本とも勝ち組になれる可能性があるんですよ。
アニメ制作会社は、アニメを作り続ける事によって利益を追求する組織です。
だから私は売れることは絶対の正義だと思っています。
もしこれを「アニメは『文化』であって、『商品』じゃない」「売れることを目指すのは悪だ」と批判されてしまったら、アニメが作り続けられなくなってしまうんですよ。


…黒字にするという点で言えば、という考え方。
これには(赤字作品の多さも含めて)吃驚です。

・記号で売れる、世界観で売れる、そんな話はない
己の愚かさを承知の上で、あえて言います。“当たらなかった大作”は、私から見るとこれじゃあ当たらないよ、という気にさせられてしまうんですね。
よくある間違いに、「売れそうな記号を貼り付けただけ」というのがあります。
メガネは、その時点では「記号」でしかないんです。
流行には、どうして流行になったのかという“根っこ”がある。
「人が望んでいるものは何か」という根っこが。
そこを分析しないと、目先の記号に踊らされるだけになると思うんですよ。
記号は出発地点なんです。
記号を入れるにあたっては、お客さんが記号を通して望んでいることは何かというのを探っていかないと
作り手がお客さんを見ないということで言えば、起こりやすい間違いがもうひとつあるんですよ。
アニメには、作り込んだ世界観や細かい設定がありますよね。
でも、アニメーションの世界観とか設定は、ある一線以上を映像の中で語り始めると危険なんですよ。
少し語っておいた方が、作品にドラマ性を感じられるからいいんですけど、ある一線以上語り始めると、お客さんの“快感原則”から外れてしまうんです。
カルチャーに求めている欲求であるところの「外に出す」ことができなくなるんですね。
物語を通して、泣きたい、笑いたい、という感情をはき出したいのに、作り手から一方的に発信される世界観を「受ける」だけとなると、「うーん、それで?」となってしまう。
作り手としては、設定をわかってくれるような“マニア同士の意気投合”は楽しくもあるんだけれども、それを作品のメインに据えてはいけないんですね。


…この辺は、以前のインタビューに通じますね。
感情を表に出す「外向き」、想像・妄想・考察の余地がある「内向き」の、それぞれの欲望の部分があるべき、と。

・「売れなくても良質な作品」を作る条件
みんながみんな、そんな幻想を言うものだからおかしなことになるんですよ、アニメーション業界は。
売れなくてもいいというタイプの作品は、かなり限定されるんです。
もう腹を据えた上でやっちまった、これは回収できなくてもいいと。
つまり「次の作品に繋がる黒字」にならなくても良いから、この作品に関しては好きにやらせてくれと。
ただ、アニメーションというお金がかかる産業構造のところで回収できないことをやろうとする限りは、当然それだけの覚悟はしてますよねと、それだけの腹をくくってないのに「月々の給料が欲しい」と言い出さないでねと。
自分たちの好きなようにやって、その代わり赤字になっても、「最近仕事がなくてさ」と愚痴をこぼすなよと。


だから、基本アニメを作る人達は、あくまで「黒字を出す」事を目指して行くべき、と。


●「お前は分かっていない」に負けるな
谷口悟朗監督「コードギアス 反逆のルルーシュR2」(4)
2008年9月12日

作り手がやりたいことを好きにやって、お客さんをおいてきぼりにしてしまうというのは、アニメ制作者が陥りがちな罠なんですよ。
私は、今のアニメーション業界の一部には、「お客さんよりも作り手のほうが上だ」という思想があると思っています
クリエイター至上主義といいますか。
アニメ関連の雑誌や企業広告でクリエイターがたくさん取り上げられて、何となくすごいというイメージができ上がっていった。
これを否定する気はないんです。
ただ、それが世間一般にまで浸透してしまったがために、送り手はお客さんよりも偉いのではないか、という幻想を、作り手に抱かせるようになってしまった


作品を生む側への、ですか…
確かに、作品を作る人への尊敬はあるものかと思いますが、アニメという「お客さんに対応して黒字を目指す商品」を作る上では、そうなってはいけない、と。
う~ん…ちょい難しいですなぁ。

アニメーションは、ほかの小説や映画、漫画とも、少しだけ違う発展の仕方をしたんですね。
もともと「子供向け番組」というところからスタートしていて、子供に対して、“毒”としての、もしくは“教育効果”としての子供向け番組、テレビまんがという形で始まっていった歴史があって。
「テレビまんが」は、映像業界の中でも、世間一般でも、一段下に見られていたわけです。
だから次第に、アニメーションを作っているスタッフの社会的地位を、何らかの形で認めてもらう必要があるだろうという動きが制作者側から生まれました。
大勢の人たちの前で、アニメーションでもこういう表現ができます、アニメーションにも監督というものが存在するんです、それを作るスタッフというものが存在しているんですということを、宣言する必要があったんですね。
おそらく富野監督としては、自分が業界に批判されるのを承知の上で、誰かがやらねばならないということで行ったことだと思うんです。
恥をかくのを承知でやられた。立派です。


…この辺、未だに日本では根強い事は確かでしょうなぁ。
テレビという映像媒体の中のアニメ、未だに「子供向けの番組」認識止まりの人の多い事多い事。
朧の周りでも、所詮アニメって認識の人ばっかりで…(泣)
そういう意味では、起源はどうであれ「立場」という点では、本という文字や絵の媒体の中の漫画、も似た立場な気も。

問題があるとすれば、アニメーションはすごいんだとアニメ業界側が世間に対して言い続けなければならなかったために、アニメというジャンルが、お客さん、特に10代、20代の若者に対しては、必ず何らかしら哲学的なメッセージや、人を導いていくような何か、そういった立派な思想が込められていなければならないという幻想が一部の関係者や観客に生まれてしまったんです。
物語の基本ではありますが、そこに余計な物まで付いてきたと言えるでしょうか。
そもそも「立派であるべし」という大前提が間違っていた、ということですかね。
昔からアニメーションは、メッセージ性が強い作品群よりも、そうじゃない娯楽作品の方が実際には多かったわけですし。
ただ、「オールド・アニメファン」とでも言えばいいでしょうか。いわゆる“玄人筋”の人たちは、アニメにメッセージ性があるかどうか、新しい何かがあるかどうか、というところに評価基準を置いてしまった。
これは、下手をすると排斥につながる。


ファンからの人気が根強い過去の作品で、そういうメッセージ性のある物が多く、高評価だったから、でしょうかねぇ…?
ガンダムSEED以降からアニメにハマった朧的には、イマイチピンと来ないんですが…(苦笑)

・「通」がつくる権威が、大衆を遠ざける
ひとつのカルチャーが続いていくと、それに関して精通している「通(ツウ)」という存在がどうしても発生してしまう。
「通」の存在が、次第に1つの権威みたいになって、若い人たち、作品の良し悪しを自分で判断する基準を持たない人たちは、通の判断基準に身を委ねることになる。
日本人の癖でもあると思うんですけど、ジャンルが成熟してくると、いろいろ分析し始めて、お前は分かっていないとか、権威的なことをどうしても人は言い始めるわけですね。
アカデミー化しちゃうんです。
でも、これはダメあれもダメと言い立てることで何が生み出せるの?と思うんですよ。
一番大事なのは、生まれてくるものが、楽しめるかどうかだと思うんです。
昔からずっと不思議に思っているのが、伝統芸能の扱いなんです。
やっぱりそれも「伝統」という言葉が拡大解釈されて、権威を身に纏うようになってしまった結果だと思うんです。
歌舞伎や落語も生き残るために権威を必要とした。アニメも同じです。
なら、今考えねばならないのは、その権威を護るのか、壊すのか
アニメーションが「通」のものになってしまいそうだというところから、今、振り返って結果的によかったなと思っているのは、1990年代の終わりから2000年の頭ぐらいに、いわゆる「美少女もの」と呼ばれるジャンルが急速に広まったことです。
美少女ものは、恋愛シミュレーションゲームや、18禁のPCゲームというまったく違う文脈からきていましたから、通の人たちからすると、今までの自分たちが知っているアニメの文脈では上手く語れない、解釈し辛いなものだったはずなんですよ。
「通」の人からすると「俗っぽいもの」だったのかも知れませんが。


あ~…
この辺、朧がクラシックや美術の世界に感じているのと同じでしょうか?
権威や伝統に基づいて評価される、一般からは遠くも感じられる、独特の世界。
確かに、そういう意味では一般大衆を遠ざけているのかも。

・深く考えず、俗っぽく、欲と毒を呑み込んで
世の中には「型から入る、形から入る」という楽しみ方も存在し得ると思うんですよ。
日本でも「黒人文化」というジャンルがあるじゃないですか。
でも、日本のお客さんはその文化的背景の意味を考えずに受け止めますよね。
ルーツやメッセージ性は抜きにして、取りあえず形から入って楽しむ。
それはそれでいいことだと思うんですよ。
型自体のカッコ良さに惹かれて、上辺の型だけを取り入れる、美味しいとこ取りの融合による楽しさというものが存在するのだと思います。
深い意味を考えないからこそ、成立して楽しめるというものもあるはずだと思うんですよ。
俗っぽいものは大事です。


形から~ですか。
確かに、「きっかけ」がどんな形であろうと、興味を持つ事自体が否定されるものではないですし。
逆に、↑の権威で一般から離れた様にも感じるものの中には、一般大衆向けの「きっかけ」を作ろうとする動きがあるのも事実ですしね。

大衆が好む欲や毒を呑み込んで作られるのがサブカルチャーで、アニメというジャンルは、サブカルチャーが基本だと私は思っています
オールド・アニメファンの人たちが、アニメーションを、これは新しいカルチャーなんだと世間に知らしめようと努力してきたことは否定しません。
社会からどれだけ迫害されようと、好きだ、好きだと言い続けていた人たちがあるからこそ、今のようにアニメを世界に向けて発信していける土壌ができたんです。
でも、だからこそ、やっぱりある一線以上、彼らの声を重視するのはよくない


この辺も、前のインタビューでも言われていましたねぇ。
アニメはあくまでサブカルチャー、薬ではなく毒なんだ、って。


●嫌われる覚悟が、売れる作品を作る
谷口悟朗監督「コードギアス 反逆のルルーシュR2」(5)
2008年9月19日

・アニメの武器を実写が使いこなすようになってきた
アニメーションというのは、頭の中のイメージ情報を整理して映像にできるジャンルだと思っています。平面のシンプルな線に置き換えられている、ということは、絵としては情報が1回咀嚼されて整理されているということなんですね。
つまり、絵としてどこを残すのか、どこを強調するのか、作り手の演出というフィルターを通って観る側に届けられるわけで、その良さはあると思うんです。
アニメでよく見られるモチーフは、マンガなどと同じく人間の願望をわかりやすく単純化した形で表わしていると言えると思います。
だから子供を含めた大衆に対してのアピール力がある。
実写ではできないことができるのがアニメーションの大きな強みで、例えば「ロボットもの」「魔法もの」など、アニメに向いている題材というものはあります。
ですが、実はこのところ、アニメーションの将来に関しては難しいところに入ってきていて。
前にお話ししたように、アニメは社会的に認めてもらおうという流れがありました。
それがある程度成功して、“アニメ的表現”というのが世間的な認知でもって浸透、拡散してきたんですね。
その結果、実写でもアニメ的表現をするようになってきた
今の映像技術では、実写の映像を加工してアニメ的に動かすことが可能になっている。
実写の世界でそういう技法をやられると、アニメーションならではの武器が、だんだんなくなってきているんですよね。
たとえば漫画原作のドラマ化などで、アニメ的な映像技法や漫画的な芝居をやられると、アニメ化されたときに何をやればいいんだと。


…これ読んだとき、「DEATH NOTE」や「のだめカンタービレ」が浮かびました。
両者とも、丁度近かったり重なったりの同時期に、ドラマ(実写映画)化・アニメ化した漫画作品。
確かに、実写がアニメっぽい演出の域にも入っていたのか、とも思います。
CGとか特殊効果とかでデスノのリュークみたいに非現実的な架空の生物や空想的な動きを演出する事ができるようになったし、のだめのあの演出は徹底的に漫画のイメージを再現していて。
その上で、「アニメ」も…となった時に、実写とは違う良さとは何か?とか思うと…難しいですねぇ。

無理に生き残らせる必要はないでしょう。
観客が望まないなら滅ぶだけです。
それに、アニメーションの定義といったものに関してはたぶん広がっていくだろうと思うんです。
そのうえで、人間が一枚一枚動きを描いていくような「手描き」のアニメーションは、私は好きなのですが、残念ながらこれからは貴重品になっていくと思いますね
というのは、今メインで描いているアニメーターさんたちもそれなりの年齢を迎えていきますから、体力的に量産は難しくなる。
そうするとやっぱり手描きは貴重品になっていってしまうと思うんですよ。
彼らの労力は、毎週放映があるTVシリーズよりも、単発でも技術的に高いものが要求される劇場版やオリジナルビデオ作品に投入されることになりますから。
実際に今現在のTVシリーズでも、3Dを用いたアニメーションは増えつつあります。
いずれにせよ、もともとアニメーションとは手描きだけを指している表現ではない。
そうするとたぶん、もともとのアニメーションの語源である「物が動くことによる生理的快感」に、ある程度立ち戻っていくと思うんですよ。
必要になってくるのは、アニメーションという手法を使ってしか表現できないものを探すということだと思うんですよ。
さっき言った、実写でやれることをわざわざアニメーションでやる意義といったら、もしかしたらないかもしれないんですよね。


…この辺、ジブリの宮崎駿監督とかも似た感じでしょうかねぇ。
今回の「ポニョ」も、以前の「ハウル」でのCG使っての作品作りに物足りなさとか何と言うか…今度は「手描き」の動く絵を、って想いで作ったみたいですし。
だからこそ、ひたすら手で描いたアニメを、って言っていましたしねぇ。

存在するものはありますよ。
たとえば「コードギアス」は実写でやれるはずがないと私は考えています。
まず主人公のルルーシュを演じられる役者がいないでしょうね。
実際の役者が演じたら、違う意味が発生します。
金銭的な制約でいっても、国家間戦争を描くだけのセットを組んでTVシリーズにするというのは、ちょっと無理ですよね。
テクニカル的にも、まだ実写には無理だと思っているのは、「プラネテス」という作品ですね。
宇宙空間の無重力表現とか、月面の表現とか、あれはもう技術的に実写では不可能ですから。
できるとしたら劇場映画、それも相当なお金や手間暇がかかりますよ。
日本でやるとしたら、山崎(貴)さんの白組なり、あの辺が乗り出さないと、たぶん無理でしょうね。


…コードギアスを実写でやるとしたら?に対して、監督完全否定発言(笑)
でも確かにルルーシュを演じられる俳優はいないですよね!
他の誰が居たとしても、ルルーシュだけは絶対!!
ルルーシュの魅力の再現は無理ですよ~
R2になった事で、より実写は難しくなっているでしょうし。

・ロボットは、欲望を整理して見せやすい記号
特にロボットに関しては、アニメーションで最も有効なツールだと思っています。
ロボットは、漫画や実写の映画にも登場しますけど、そこではメインストリームにはなり得ないんですよ。
アニメにしたときに、初めてメインストリームになり得るんです。
アニメーションはロボットが最大の武器なんですよ。
うーん、すこしむつかしいいい方になりますが、ロボットは虚構でもあり、現実でもある、という事ですかね。
それらしく見せることもできるし、ウソだけど気持ちよいでしょう、と表現することもできる。
情報の整理がとてもしやすい記号なんです。
人間の欲求を具現化したモチーフを、絵で単純化して強調させる。
それによって発生する良さってあるじゃないですか。
ただ、その良さによって何を伝えたいのかというところまでいかないとだめだと思うんですよ。
つまり、3Dを含めた技術はしょせん技術でしかない。
大事なのは、その技術を何のために使うのかだと思うんですよね。


「ロボット」への独特の感情というか意識というか、そういう想いって結構日本人固有の部分って少なからずあるように思えます。
日本人独特じゃないですか?
人型ロボットへの固執というか…特別視?
アニメの代名詞ともいえる位、アニメに於ける「ロボット」の存在感って大きいですよねぇ。

・一定数の客は、あきらめる
一方で、「コードギアス」に関しては、最先端の表現を追求し過ぎているおかげで、苦しくなってしまった部分はあるんですよ。
たとえば、ストーリーテンポ。
場面展開がすごく早い
んですよ。
あれに抵抗がある人たちもいるでしょうね。
バッティングするけれども……実はこの作品は賭けに出ているんですよ。
お客さんの観たいものはリサーチするんですけど、お客さんのことだけを考えていくと結局どうなるかというと、八方美人な作品になるんです。
「コードギアス」に関しては、いろいろな要素が盛り込まれている故に、ひとつの作品として成立させるためには、どこかに特化させなければいけないと。
たとえばもしもこの作品を全方位外交でやるんだったら、もっと物語世界を単純にするとか、人が死ぬような残酷なシーンは一切出さないとか、小さいお子さんも見られるようなことをやるしかないはずなんですよね。
しかし、それでは作品のテーマを描くことができなくなる。
最初に「どういったお客さんに対して、どういう形で楽しめるものを作るのか」をセッティングしたならば、それ以上の客を見てはいけないと言えばいいんですかね。
一定以上の客をあきらめるということです。
あきらめる勇気が必要だろうと。

子供に限らず、あきらめる大人のお客さんというのも存在します。
「オールド・アニメファン」の人たちにも全て受け入れてもらおうと思うと、今の構成では無理かもしれない。
・覚悟はあるか?
結局、どんな作品であったとしても、万人から好まれる作品というのは1つも存在しないという、ごく当たり前のところに行き着くしかなくなると思うんです。
どんな物でも同じです。それこそお菓子だろうと、服だろうとターゲットは存在します。それ以外はあきらめるしかない。
必要なのは、お客さんに嫌われてもいい覚悟ということなんです。
……ところが作り手も、嫌われるのを怖がるんですね。


「全ての人」を対象にする事は不可能…確かに。
ただ、コードギアスは素材もキャラクターも多いんで、ファンの対象はかなり多いかと思いますが。
ストーリー展開の速さは…まぁ、もぅ凄いですよねぇ(汗)
最近の尺不足感、あれも結構否定的な人もいますし…
朧も20話辺りからの超速展開は…多少抵抗があったり…(苦笑)

もちろん玄人のファンでも、柔軟な人はいます。
でも、今まで観てきたアニメと違うものが受け入れられない人たちには、今の表現では抵抗があるでしょうね。
そして、理解できない作品だとしても、人は理解しようと考えてしまいますから、「コードギアス」で言えば修飾の部分、つまりわかりやすい記号、美形キャラクターであるとか、そういう表層上のところでしか見なくなるんですね。
もしくは飾りの仕掛けしか目に入らない。
そうなると、自分たちの好みとか好きなタイプの作り方とは大きく反するから、「この作品はダメだ」ということで攻撃に入るはずなんですよ。
そして玄人のファンというのは、業界人も評論家も含まれます。
前向きな批評は必要ですが、攻撃は何も生まない。建設的ではない。
難しいことに、そういう方々が現在のアニメシーンにおいては権威の中核なんですね。
その人たちは当然、自分の敵にならざるを得ません。


…え~と、そ、そうなんですかね…?(汗)
それが一般人でいうと、「アンチ」と言われる方、みたいな感じ…?
批評と否定は違う、って事ですかねぇ。


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