2008-09-02 18:37 | カテゴリ:コードギアス 反逆のルルーシュ R2
 
コードギアスの公式サイトにも載っていましたが、谷口監督のインタビューがあったので、第1回、第2回のその引用と雑感をば。
…読んでて、「ぅ…納得…(汗)」みたいなのが多くて。
何と言うか…グサグサグサッ!って来た感じです。

因みに朧は21歳…「今の子供達」の少し上、です。
まぁ監督とかの世代と比べたら余程近いでしょうが、それでも4、5歳も違うとかなり印象って変わるんですよね。
朧から見ても、「自分の世代」と「今の子供達」との差って結構感じます。
「万能感」とか、「やれば出来る子」、「努力をせずに、楽な方へ」なんて辺りはもぅ、仰るとおりです…としか言えない(汗)


ギアスの公式サイトに、インタビューページへのリンクがありますので、興味のある方は一度是非。
監督の持論とか、コードギアスという作品への想いとか背景とかが少し垣間見れるインタビューとなっています。
続きを読むには無料会員登録が必要ですが手続きも簡単ですし、朧自身も読む為に登録したクチです(笑)
21話の理解がまた、深まるというか…参考になる感じです。


以下は、超・個人的に徒然と。
監督の引用部分は多少切り貼りしております)


●「やればできる俺」という欲望
谷口悟朗監督「コードギアス 反逆のルルーシュR2」(1)
2008年8月22日

友達が大事、友だちが欲しいという気持ちは、今も昔も変わらないでしょう。時々、「携帯やゲームが子供たちをダメにしたんだ」みたいな説を見ますけれども、表層上のツールの変化が、人間のメンタリティを根本から覆すとは私には思えない。
でも、ツールって、結局その時代、時代のものであって、じゃあどこまで逆戻らなきゃいけないのといったら、最も自然に近い原始時代まで戻ることになりかねないじゃないですか(笑)。ツールの変化はあくまで表層上のことでしかないと思うんですよ。
それで自分としては、人間の根っこは変わらないというところに行き着いたと。その変わらない部分を探りにしていけば、10代に向けたアニメは作れるはずであろうと。


「子供の在り方は時代を映す鏡」とか言いますが、確かに「自分自身」も「その時代に育てられた」部分が皆大なり小なりあるでしょうなぁ。勿論その時代を作った「大人」に、とも言えますし。
でも、今の子供より昔の方が~とか、昭和は良かったとか、最近は結構言われていますが、だからって昔に戻ってそれでOKなんて問題ではないですし。江戸時代が最も素晴らしいエコとなっていたとか、じゃあ今からなりますか?と言ってなれるものでもないですし(苦笑)
今は「今」ある物を、子供達に正しく与えられれば…なんですよね。
ゲームやケータイが子供に云々、という場合、その原因はゲーム等そのものではなく、それを与えた周りの大人達の「与え方」だと思うんで。
子供はまっさらで善悪の基準が未完成であり、その基準を子供自身が作る為に周囲の大人はきちんとサポートしなければならない筈なんです。それがきちんと「できる大人」ならゲームをしても子供はきちんと育つし、「できない大人」ならゲームをしなくても子供は(嫌な言い方ですが)ダメになる、と。
因みにケータイについては、朧は中3?で持ち始め…同世代では普通位でしょうか。で、高校入学時にはほぼ全員が持っていたと思います。ちょうど朧の世代は高校入学で一気に普及した感じで…ケータイを持っている/持っていないという個人差のある期間があまり無かったですねぇ。
そう思うと、ケータイの有る無しの差があまり表面化しなかったので、その点ではタイミング良かった、のかな?

人間が生理として持つ三大欲求は、今も昔も変わらないですよね。それより大脳のもう少し外側にある欲求。お客さんは、「外に出したい」。もう1つは「取り込みたい」。大ざっぱに分けたらこの2つが大事だと思うんですよ。
「外に出したい」というのは三大欲求の方にもある程度絡みますけれども、笑ったり、涙だったり、泣き声だったり、感情に付随するものですよね。何かを外に出したいんです。
もう1つの欲求は「取り込みたい」。自分にないものを埋めたいというものですね。
人間というのは、対象(きっかけ)さえ与えられれば、それを手がかりにして、脳内でふくらませて、勝手に物語を作り上げて楽しむことができるんです。


↑は二次創作とか、モロにそうですよね。
コードギアスは意図的なのか、「想像の余地」が多分に含まれている作品なので、そういう意味でも面白いですし。
でも、公式が最大手な気も…(笑)

「自分にないものを埋めたい」というのは、「知りたい」ということですね。さらにその先には「考えたい」というか、「考えるきっかけが欲しい」というか、「何であいつはこんなことをやるんだろう」「こいつはこんなことをやったらどうなっちゃうんだろう」、みたいな。人間が興味を持つものは、やっぱり人間に行き着く。いつの時代どんな年齢の人でも。

…凄く納得。
特に、朧としては「取り込みたい」願望というか欲求というかが、こういう「作品」への興味になっていると思います。
ブログで記事として書いているのも、「書く」というか「文字にする」事で、頭の中の考察を整理整頓してより考えを巡らせたいと考えるからで。
そういう意味で「作品」と接したいと思う人にとっては年齢性別問わず、コードギアスという作品は凄く面白いかと。

人間が欲しがるもの、好むものは昔からおんなじで、友達が欲しい、彼氏彼女が欲しい、誰かに勝ちたい、誰かを思い通りに動かしてみたい、というようなことなんですよ。
どんな人間だって万能でありたい。エンタテイメントが提供するものの基本ですね。「スーパーマン」だってそうでしょう。みんな「自分は何でも出来る」「主人公でいたい」と思っているはずなんです。
「コードギアス」は昔からある物語に比べて、万能感がダイレクトに突出していると思います。


アニメ雑誌か何かで読んだ記事にもそんな感じの話がありましたよね。
「自分はこんなものじゃない」「もっと自分はできる事がある」とか、自分の能力は価値は本当はもっと!って思っている、社会の中でくすぶっている物がある、と。
ルルーシュの様に、スザクの様に。

先生に取材したときにうかがった話なんですが、生徒に、将来何になりたいかを聞いて、サッカーの選手になりたいと。「でもお前はサッカー部じゃないだろう、運動は何かやっていたっけ」と聞くと「いや、やっていないですけど」と返ってくる(笑)。
やってなくても、「俺はやったらできる子」という感じなんですね。
今の10代の子は、例えば「サッカー選手になりたい」という空想を、現実世界でも「俺はなれるだろう」と容易にスライドしてしまうケースが多い、というだけで。


…はぁ?と思いたくなるような、ホントの話だそうで(苦笑)
でも、なる為の努力をせずに、本人はなれると思っている…という傾向があるのは朧も聞いた事があります(汗)

アニメ作りの現場で感じる、同じような変化もあるんです。
新人に、制作進行を経た後に、将来アニメのどんな部門に関わりたいかを聞くと、時代が下るに従って、語られる夢がどんどん変わってきているんです。
演出は集団作業の現場のど真ん中にいないといけないので、端から見てもきつそうに見えると。根幹から関わるから面白いと考えるか、きついからパスと考えるかが、時代による差なんですね。
「脚本なら、作品作りに関われるし、文字を書くだけだから演出よりは楽かな?」と考えるところからきているんです。
もちろん全員が全員そんな不純な動機ではないですよ。でも「楽して好きなことができる」と考えて志望する人が増えてきた
実際に現場に入ると、脚本家も脚本家で大変そうだというのが見えてくる。そうすると、アニメの仕事の中で一番楽なのは何だろうと。そのうち、企画書で自分の好きそうなお話とキャラクターを書くだけで、あとは作っておいてねと現場に投げられる「企画」の仕事が楽だと思い始めたんですね。
そこには大きな誤解があるんですけど、企画書に好きなことを書きつらねる行為が、企画の仕事だと捉えられてしまっているんです。
職業選びが、どんどん「楽してできるものが良い」という方向にいってるんですよ。
その発想は、声優志望の人からも感じます。
声だけなら何となく楽にできそうだと。加えて、歌を出したりイベントに出られたりすると。
日本語をしゃべることが声優の条件であれば、自分にもやれそうだという気になっちゃうんですよね。
「夢のようなスゴイものを、努力をしないで獲得できる」という思い込みが今の若い人にはあると思います。


…何と言うか…(苦笑)
「努力」を避けて「楽」な方へ、っていうのも、あぁ確かに…っていう部分があって。
というか、上の世代から見れば朧の年代もその傾向が見られるんでしょうなぁ(汗)


●「世界は自分に優しくない」という解毒剤
谷口悟朗監督「コードギアス 反逆のルルーシュR2」(2)
2008年8月29日

読者が、「努力によって何かを勝ち取る」という“物語”に夢を見なくなったんじゃないですか。

「DEATH NOTE」なんか、まさにその分類の作品っぽいです。
主人公とかが、地味に仕込むシーンはあまり表現されないとか。
そういう、時代の変化によって表現が変わるっているの、よく聞きます。
最近ではCLAMPさんのインタビューでもあったかなぁ。
そちらでは、「最近の読者は展開の速さを求める」「起承転結の『承』をわざと省く展開が好まれる」とか書いてあったような。
「過程」をとばして、より早く「結果」を求める。
そういう風潮というか…そんな風に「受け取り側」の意識が変わっているのかもしれませんねぇ。

「コードギアス」制作のためにリサーチした限りでは、今の子供たちは、一芸に秀でていることが、イコール上昇とは思えなくなってきているんですよ。
一芸に秀でることができたとして、その後でいいことがあるのかというと、そうでもないようだと。将来プロスポーツ選手になりたいと思ったとする。ところが今は、ネットとかメディアによって、スポーツ選手の「その後」まで伝わってくるわけですよ。そうしたら、ほとんどの選手が、一生スポットライトを浴び続けられるわけではないと。そうした情報が嫌でも入ってくる。
一芸に秀でるといっても、国体だったり、甲子園に出たぐらいではだめかもしれない、じゃあどうするんだということで。
情報が広がり過ぎてしまったが故に、子供たちは将来について不安になることが増えてきたと思うんですよ。


…朧も、そのクチですね。
例えば「年金問題」とか(←おいッ)
いやでも、将来の不安というのは凄く感じますよ?
大企業の突然の倒産とか、今までずっと年功序列で会社の為に働いていたのに大量リストラとか、そういう情報が世の中を巡った事も余計に「一寸先は闇」な社会な印象を受けて。
だからこそ、朧の世代でも「安定した収入を得られる、安定した職に付く」のが第一希望、っていう人が多いんだと思います。
だからこそ、仕事に対して「好き嫌い」とか「やり甲斐」とかが後回しになってしまっているような。

子供が子供時代から守られることが多いですよね、何だかんだ言っても。
守られ続けてきてしまって、社会に対しての具体的な指針も与えられない人間が、いきなり社会に出たら、それは挫折しますよ。だって社会というものが自分に対する「敵」であるということが、いきなり分かってしまうわけじゃないですか。
今は、子供を守ってあげるべき期間が長くなり過ぎてしまったし、その期間を抜けた後に、自分はどうすればいいんだという社会的指針が見えないが故に、社会の隙間に落ち込んでしまう。


過保護と単純に言ってはいけないような、そんな親子関係もあるわけで。
何処かで読んだものですが、「子供の前の石を除く親」って話を聞いた事があって…何と言うか、子供は石に躓き転んで、痛みに泣く事で石の危険性と石に注意する事を学ぶのに、過保護な親が転ぶ前に先んじて石を除いてしまう、と。で、親の手が届いている間は表面上それで良いんですが、親の手が届かなくなった後、初めて子供は「石」に躓くワケで、その危険性も対処法も知らない子供は大きく傷つく、対処出来ずに潰れてしまう事も…みたいな?
モンスターペアレントとかの存在が問題視されて来ているのも、そんな「問題」が大きく、多くなっている事の証かと。

今ならば、「自分自身は現場には出ないで指図する」万能感が喜ばれる
誰かに命じたら、自分の代わりに誰かが全部やってくれるのが良くて、なおかつ命じることに対してリスクがない、マイナス要素が存在しないのが良いと。
この作品は、そういう「現場に出ないで万能」に見える主人公を出しながら、展開的には万能を否定しているんですね。「コードギアス」を作るにあたって、一緒にストーリーを作っている脚本家の大河内一楼さんとの打ち合わせで、まずこの作品の基本定義は「世界は自分には優しくない」というところに置こうと決めました。
つまり、主人公がどれだけ万能感を持って世界を動かそうとしたとしても、世界は思惑通りに動かないというのが基本です。
主人公の意図と世界の齟齬は、嫌でも発生すると思います。世界は俺を中心に回っていると思ったとしても、実際に世界はそうは動かないんですよ。


「間違っていたのは俺じゃない、世界の方だ!!」
っていうR2第1話のルルーシュ台詞、それがはっきり否定されてます。
ルルーシュの想いとか願いとか、そういうのがルルーシュの与り知らぬ場所で違う結果を出している現状がそうなんですね~(泣)
世界はそんなに単純ではない、穏やかではない、それぞれのキャラの意図とは関係なく廻っていくと。
…つまり製作側は「如何にルルーシュに酷い展開にするか」とかばっかり考えている、の…?(滝汗)

「コードギアス」という作品では、物語の構図として意図的に仕込んでいるラインがあるんです。登場人物たちのコミュニケーションの取り方を、あえて「一方的」にするようにしています
本来、コミュニケーションというものは、人と人が真っ正面から向き合うことが必要じゃないですか。
けれども、この作品の登場人物たちに関しては、それがない。「本人は一方的に相手のことをこのように考えている。でも、相手はそんなことを考えてない。向かっているベクトルが全くずれている」という形にしているんですね。
だからキャラクター同士が、共通の認識を持って真っ正面からぶつかり合うことは、まずありません。相手のことを真正面から捉えてぶつかっているように見えても、ちょっとずつ微妙にずれていたりとか。中でもルルーシュは特に我が強い人間なので、一方的に「アイツはこう動くのが良いだろう」と考える。彼にとって、その人の意志は関係ないんです。
主人公に都合がよい世界にしないためです。現実世界が、そういったものであるだろうと。


…成る程。
一方的な想いや、こうあるべきという考え、余計なお世話ともとれる言動、各キャラにそういう描写が多いのはその為なんですね。
一方通行の想いというか…認識が多いですよね(特にルルーシュ…)
「まずありません」とありますが、逆に、共通認識の上での向かい合い…もしそれが今後あるとしたら…?
まだ、朧はルルーシュとスザクを期待していますよ!(必死)

↑の部分、21話前に書いた部分なんですよ…来た!!って吃驚ですよ!
この辺とか↓の話とか、21話を見ると余計に成る程…と思いました。

協調を強いる社会があって、それに個人がぶつかって、社会制裁を受けて、という流れがあったけれども、時代が下るにつれて、こうした社会制裁的な機能はどんどん拡散していったんですね。結果、まともにケンカをしたこともない人が増えてしまった。
社会全体がこうした制裁を、個人にとってマイナスだから廃止しよう、廃止しようと。これは当然の流れなんだけれども、恐らく、廃止し過ぎて大事なものまで失ってしまったというふうにも思うんです。
子供を守るための動きを否定するつもりはありませんし、そういう動きはなければいけないと思っています。ただ、いつまで子供扱いするのか、それが本人のためなのか、という事なんです。


↑の、過保護な親と子供、でも言いましたが。
喧嘩を知らない事で、何がどの位相手を傷つけてしまうのかが解らないまま大きくなる子供が多い事。
これもまた現代の問題ですよね。

「子供をどう導いていくか」を考えるのは、私たちサブカルチャーの仕事ではなくて、本来はメインカルチャーと呼ばれるものがやらなければいけないということですね。
メインカルチャーという大きな柱が存在しているからこそ、それに対してのカウンターカルチャー、もしくはサブカルチャーというのが存在し得るわけじゃないですか。
ところが今、何がメインで、何がサブなのか分からないところに落ち込んじゃったというのが、軸がぼけている原因ではないかと思っているんです。
私はアニメーションというものは、基本はサブカルチャーであると思っているんですよね。
薬じゃないんです、毒なんです、これは。そしてやっぱり毒は毒で必要なんですね、人間には。
薬と毒の両方を知らないと、一方的にこれが正義であるとか、これが正しいということで断罪することになっちゃうじゃないですか、人間は。相対主義が良いとは言いませんが、いろいろな物事の見え方とか側面を知っておいた方が、人生が豊かになるし楽しいでしょうという。


光と闇、正義と悪、白と黒、みたいな?
両方を知っている事でより理解が深まるというか、相対する存在のおかげで存在がよりはっきりとなるというか…そんな感じでしょうかね?
そして、アニメというもの自体は、カルチャーとしては毒というかスパイスというか…「素」があってこその、なんですね~。
だから「現実」をきちんと認識出来ていないまま「虚構」に呑まれてしまうと、「虚構」をそのまま「現実」にもスライドさせてしまう恐れがある、と…成程。



うん、凄く興味深かったです。
監督の描きたいものというか…コードギアスで示したいものがどんなものなのか、どんな意図で作っているのか、そういう部分が少し知る事が出来たかなぁ?という感じ。
続きも楽しみにしております!


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